髪の毛をなくした僕の体験

※『母の友・2007年2月号』(福音館書店、2007年)に掲載。挿絵:吉野晃希男さん。
http://www.fukuinkan.co.jp/detail_page/haha200702.html

■僕の症状
 僕は今、二十五歳。「円形脱毛症」という肌の症状を持っています。円形脱毛症というと、小さな抜け毛を思い浮かべる方が多いと思います。ですが、なかには重い症状もあって、頭の全ての毛が抜けてしまう人もいるのです。僕には髪の毛がまったくなく、体の他のところの毛もほとんどありません。
 僕の毛が少しずつ抜け始めたのは、三歳のときでした。驚いた母が、僕を病院に連れていきました。お医者さんからは、「悪い出かたです」と言われたそうです。しばらくして、毎週、病院に通うようになりました。それから、髪の毛、眉毛、まつ毛などが次第に抜けていって、まったくなくなってしまいました。
 幼いころに受けた脱毛症の治療には、ドライアイスを頭にぬる、というのもありました。僕はとても痛かったのを覚えています。治療が終わったあと、病院のロビーで、ヒリヒリする頭を母の手で温めてもらいました。そうしてもらうと、安心しました。「こんなに痛い思いをしたのだから、きっとなおるだろう」と、僕と母は思いました。けれども、少し生えてくることがあっても、またすぐに抜けてしまいました。
 そのころの僕のことを大人になって母に聞いてみました。幼いながらも、僕は症状を自覚していたそうです。髪の毛が抜け始めたころに、町の中で鏡に写った自分の姿を見て、「なんか変だな」と言っていたそうです。
 
■大人になったら、どうしよう
 小学校へ入ると、知らない人たちのいるところへ外出するとき、僕は帽子をかぶるようになりました。僕は、「大人になるころには、僕みたいな子も髪の毛が生えてくるものなのだろう」と思っていました。まわりの大人たちはみんな、髪の毛が生えていたからです。町では、スーツに身をつつんだ男性たちがさっそうと歩いていました。スーツを着た青年たちの頭には、髪の毛が豊かに生えていました。
 僕は、「大人になった男性は、みんなスーツを着るものだ」と思っていました。そして、「スーツを着ている青年には、帽子や、髪の毛のない頭が似合わない」と思いました。
 僕は、帽子をかぶらないで知らない人たちの前に出ると、みんなを動揺させるとわかっていたので帽子をかぶりました。けれど、大人になった僕が帽子をかぶったら、どうでしょう。「スーツには帽子が似合わない」と思ったので困りました。「大人になったときに、もしもまだ髪の毛が生えていなかったら、どうしよう……」。僕が思いついたのは、人と会わない家の中だけの仕事や、帽子をずっとかぶっていられる仕事をして、生きていくことでした。
 
■好きでこんな頭してるんじゃない
 髪の毛のなくなった僕は、「病気だと、なんで髪の毛が生えないの?」「もう生えてこないの?」といろいろな人から難しい質問を受けて、困ってしまいました。
 僕の友人に、「単純性血管腫」という赤いアザを顔に持つ男性がいます。その友人も子どものころ、「そのアザ、どうしたの?」とよく聞かれて、「生まれつき」と答えていたそうです。
 肌に症状や病気を持つ子どもは、質問を受けてとまどってしまうことがよくあります。ただ、質問をする人の中には、まだ相手のことを理解しようという気持ちのある人もいます。困ったのは、円形脱毛症の僕に対して、「毛を剃っている」と決めつけてしまう人がいることです。
 小学生のころ、僕が友だちと町の図書館の入り口で話をしているときのことです。知らないおじいさんが、僕を見つけて歩み寄ってきました。そしてこんなことを言いました。「きたねえな、剃っちまったのかい?」。そうして去っていきました。僕は耳を疑いました。「あの人は僕のことを『きたない』と言ったのだろうか。まさか、ちがうだろう」と思いました。ところが僕の友だちが、「今の人、『きたねえ』とか言ってたね」と言いました。
 また中学生のとき、夏休みに行った塾の先生から、「君は、いつから眉毛を剃っているの?」と厳しい口調で言われました。
 それから高校生のとき、バス停でバスを待っていると、知らないおばさんたちが僕の方を見て、「あんな頭にして、寒くないのかしら」「まあ」と言っていました。
 また、こんなことも。僕が電車に乗っていると、若いお母さんが小さな女の子を連れていました。小さな女の子が、「ねえ、あの人、頭を切っているの? それとも、生えないの?」とお母さんに尋ねました。そのお母さんは、「切っているのよ」と教えていました。
 僕はこうしたことがあったとき、「切っているんじゃないやい。好きでこんな頭してるんじゃないやい」と思いました。ふつうの肌の人は、髪の毛も眉毛も剃って生活することもできます。けれど円形脱毛症の僕は、毛のない状態しか選べないのです。
 
■お母さんに心配をかけたくない
 小さいお子さんを持つお母さんがたのなかには、「自分の子には、まわりの人とのトラブルについて、どんどん相談してほしい」という方も多いかもしれません。けれど、子どもだった僕には、まわりの人から言われたり受けたりしたことについて、大人に相談することは、とてもできないことでした。
 僕が小学生のとき、同級生といっしょに学校から帰る途中、幼稚園の先生に連れられた子どもたちがおおぜいで列を作って歩いていました。子どもたちは、「あの人、髪の毛がない!」「ハゲー!」と言っていました。僕は「いつものことだ」と思い、聞き流しました。
 同級生と僕は、僕の家に来ました。すると同級生が僕の母に、「さっき、森くんが小さい子たちに『ハゲ』って言われてたよ」と言い出したのです。僕はドキッとしました。そして、母の顔を見られませんでした。僕の髪の毛が生えてこないことは、母にはどうすることもできないことなのです。
 僕は母に心配をかけたくなかったので、髪の毛がないことで悪口を言われたり、仲間はずれにされても、家のすみでひっそりと泣いているだけでした。そのようなことは高校に行ってもあって、ふとんの中で声をひそめて泣いていました。母や学校の先生に相談することは、おおごとになりそうで怖かったのです。
 ところがあるとき、先生の前で同級生が僕のことを「ツルッパゲ」と言ってからかったら、先生が「こらっ」と軽くしかってくれました。それで、「先生が僕のことを気にかけてくれていた」とうれしく思いました。
 
■責任がないのに
 症状を持つ子どもの中には、自分を産んだお母さんや自分自身をうらんでしまう人もいます。僕の友人に、「アトピー性皮膚炎」という肌の症状を持つ女性がいます。その女性は幼いころから、その症状のおかげで肌が荒れてしまったり、かゆくて痛い思いをしてきました。そのことで、お母さんにつらくあたってしまったことが多かったそうです。そういうとき、お母さんは泣いていたそうです。子どものつらい姿を見たお母さんは、「代わってあげたい」と言うことがあります。けれどその友人は、「お母さんには代われるわけがない」と言いました。
 僕は、母のことをあまり責めなかった代わりに、「生まれる前に僕が何か悪いことをしたから、こんな風になったのかもしれない」「もっといい子にしていれば、なおるかもしれない」と自分自身を責めることが多かったように思います。
 けれども実際には、本人にもお母さんにも、責任がないことなのです。肌の症状を持つ子どもは、自然にたまたま生まれてきてしまうものなのでしょう。それなのに、本人もお母さんも、責められて悩んでしまうことがあるのです。
 
■お母さんもひとりぼっちで悩んでいた
 二〇〇五年。僕は初めて、円形脱毛症の患者会のイベントに参加しました。僕は二十三歳になるそのときまで、自分と同じ症状を持つ人と話したことがなかったのです。そこには、昔の僕と同じような円形脱毛症のお子さんを連れたお母さんたちも来ていました。僕は、「母は、僕をどんな気持ちで連れていたのだろう?」と思いました。
 僕は、患者会円形脱毛症のお子さんを連れたお母さんがたが来ていたことを、母に話してみました。すると母は、「そんな会があると知っていたなら、行ってみたかった」と言いました。円形脱毛症の患者さんのための会は、昔からあったようです。しかし昔はインターネットもなく、患者さんたちも今ほど積極的には文章や本を発表しなかったのでしょう。そのため、母が患者会のことを知ることもなかったのです。
 母もまた、僕と同じように、たったひとりで悩んでいたのかもしれません。なにか珍しい症状や病気を持つお子さんのいるお母さんやお父さんの中には、孤独を感じている人も多いのではないでしょうか。症状を持つ本人が大人になれば、本人のことを本人で決めることができるでしょう。自分の意志で、自分と同じような人と出会うこともできるでしょう。けれど、幼い子どもの場合、育てることや治療のことを、まわりの大人が決めなければなりません。そのとき、同じ症状や病気を持つ親と出会うだけでも、安心できるのではないでしょうか。
 単なる「傷のなめあい」だと言う人もいるかもしれません。「自分ひとりだけでやっていける」という人もいるでしょう。けれど僕の場合は(症状を持つ本人なので、その立場からお話しするしかありませんが)、二十三歳になって初めて、同じ立場の人たちと出会って思いを分かち合い、「自分だけじゃない」と安心できたのです。
 
■現在の僕
 ここまで読まれた方は、「肌の症状をかかえる人生は、それだけでたいへんそう」と思われたかもしれません。「自分の子どもがそんな症状を持ってしまったら、どうしよう」と思われたかもしれません。けれど子どもが大人になるまでには、少しずつ症状と上手につきあえるようになるのではないでしょうか。
 現在の僕はといえば、頭にカツラをつけたりバンダナを巻いたりと、さまざまなアレンジを楽しんでします。子どもだったころには想像もしなかったことです。
 最近、友達から、「金髪のカツラもあったら、もっと楽しいかもよ」と言われました。髪の毛のある人ならば、髪の毛を無理に染めると、痛んでしまうことがあります。カツラであれば、日によって、気分によって、自在に髪の毛をアレンジすることもできます。もちろん、円形脱毛症の人の中には、「カツラは使わず、バンダナあるいは帽子を使う」という方もいます。それでも、いろいろなバンダナでオシャレができますよね。
 せっかく(?)このような症状になってしまったのだから、「髪の毛があったら、どんなにいいだろう」と嘆いてばかりいるよりも、その症状を生かしていろいろと楽しんでみようと思っています。
 同じ症状を持っても、その症状との接し方や考え方は、人によって違います。自分の体ともっとも長いつきあいをしているのは、自分自身。だからきっと、大人になるにつれて、ひとりひとりがそれぞれの体とのつきあい方を、自然と身につけてゆくのだと思います。